000-2-何処から電話してるのか・・・

失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(上)

 独り言をまた書き始めた事を悪友にメールで知らせたら、夜中に電話が鳴った。
まったく、何のためのメールである事か。
 互いの諸々の近況報告の後、徐に彼は切り出した。
「相変わらずの愚痴話だなぁ。言いたいことは俺にも良くわかるけど、お前が嫌ってるのは、『昔映写機文庫』の事だろうよ。『昔映写機出版』の事は俺もあんまり好きじゃないけどな。『中公』、『文春』、『ちくま』だって良くやってるよ。ペイしちゃいないだろうに。要するに、棲み分け。大人は皆知ってるよ。」
 三十分ほど話をして、最後に「愛読書?」の話題になった。四十年近くの付き合いで、親兄弟、女房子供よりも互いの事を良く知っているのだけれど、またどんな音楽を好みどの種の本を読み、ウィスキーの銘柄はこれこれで、お相手のタイプは如何、と分かっていても、「愛読書」なる純情なタグは、これまで二人の関係の中には存在しなかった。
「読んでやるから、書いてみろ。」となぜか上機嫌の口ぶりから、電話先の奴の所在と姿態が容易に想像できた。


久しぶりにブログを立ち上げた目的は色々とあって、まぁある種の心境の変化、というのが差しさわりの無い回答。
読書日記、本の紹介、宣伝、感想文?評論、と書くつもりは無かったけれど、最初にそんなことを書いたものだから、画像まで引っ張って載せちまったものだから、とりあえず今回は、奴の要望に答えてみようかとまあ、こんなところだ。


『愛読書』、響きが純情で、少しばかり口に出すのは恥ずかしい気がする・・・。
境界条件をハッキリとさせて、『愛読書』の定義をせねばとも考えるが、今回は生業じゃあないので、ゆるーくただ「好きな本」で良いだろう。と、相変わらず、前置きが長いなぁ、自分でもそう思う。


本題。

1回目・・・『失われた時をもとめて』
    表題の引っ張ってきた画像は、鈴木道彦編訳の抄訳版(上)、これについては後で。

1  最初に読んだのは、1974年に再刊された『新潮社・淀野隆三・井上究一郎訳・全7巻』  
   まだ学生の頃で、金が無く残念ながら購入は出来なかった。欲しくてたまらなかったが、 図書館で。
   後に、思い掛けない理由で手に入れた。


2  1989年、『筑摩書房プルースト全集・井上究一郎訳・全10巻』
   これも図書館。購入しなかった事を、長い間悔んだのだが・・・


3  1992年、『ちくま文庫井上究一郎訳・全10巻』
   2が文庫に。飛び上るほど喜んで、購入した。今でも、旅の良き友の一人。大満足。


4  1992年、『集英社・鈴木道彦編訳・抄訳版・全2巻』(表題の画像のやつ)
   購入。意見は分かれるだろうが、私には良き友の一人。


5  1996年〜 『集英社・鈴木道彦訳・全13巻』
   購入。同時期に、『阿部公房全集』と『吉行淳之介全集』もだったので、一巻単価5000円は少々懐にひ    びいたが
   後々悔まないように過去の反省を踏まえて。


6  2002年  『集英社ヘリテージ文庫・鈴木道彦編訳・抄訳版・全3巻』
    購入。これらも良き旅の友。

7  2006年 『集英社ヘリテージ文庫・鈴木道彦訳・全13巻』      
   購入。これらも同様。

*  以上、今手元にあるのは、1、3、4、5、6、7


  ところで、
  『新潮社・淀野隆三・井上究一郎訳・全7巻』が私の書架に収まった訳は、こうだ。

 1995年2月、母親が鬼籍に入り葬儀の場で久しぶりに弟と語り合った。弟もこの年の1月「阪神淡路大震災」で被災している。幸い、被害はそれほどでもなかったが、書斎の蔵書は散乱して、まだ整理の手も付けていないとのことだった。そこから何やかやと本のことで話が弾み、この全集の話題になった。バラ売りだったら何とか買ったのに、などと愚痴っていると、家に有るよ、と事も無げに弟が言った。葬儀のあれこれでの睡眠不足と少しの酒でギラギラとハイパーに成っている私の脳が落ち着けと、警告を発していた。
  そう、じゃぁ今度神戸に出る事があったら、寄ってみるよ。これでこの話は終わった。
  そして初七日が終わり弟夫婦が帰った後も少しく悔しさが残っていた。


 一週間ほどして、芦屋から宅急便が届いた。中に『新潮社・淀野隆三・井上究一郎訳・全7巻』がきちんと当時の化粧箱入りで収まっていた。セット価格18000円、箱の側面に当時工面できなかった金額が記してある。嬉しかった。きっとあの夜、私は涎を垂らしていたのだろう。

 取り出して、第一巻の奥付を読む。発行1974年5月。傍に鉛筆書きで小さく、1976/8/9〜8/11とある。弟の読んだ日付だな、と思い、第七巻のそれを開くと、1976/9/1〜9/5とあった。そうか、ひと月かけて集中的に読んだんだなぁ、などと呑気に考えていたら、ハッと気がついた。

  言うまでもなく、疑うまでもなく彼は私の弟である。
  という事は、もちろん年下だ。1974年私がまだ学生だったのなら、彼も学生だった筈。

  ああぁー、何という恥ずべき兄である事か。脱帽、合掌。
  彼は、夏休みに読んでいたのだ。
  それにしても、金員はどうしたのかしらん、と余計なお世話を思うのは、私の悪い癖だ。(何かの折に聞   いてみようか)

  とまあこんな物語があっての現状です。


 さて、彼女たちの中で誰が一番か?と聞かれても、甚だ返答に困ってしまうのだ。
其々に、其々の魅力があり、容姿も声も具合も、いや元い、訳もその文体も、本としての体裁も、どの娘も捨てがたいのだ。
お許しを、生身の女性の事じゃあないんだから、私の浮気癖を。


 ただ一言。抄訳版は頗る良いと思う。私にとっても、これから読みたいと思っている読者にもだ。気合を入れないと?なかなか読み通すのが困難なこの物語を、平易な訳文で知る事が出来るし、文庫本3冊は、旅行鞄に難なく収まるから。


 今回は、『失われた時を求めて』を愛読書として示したが、実を言うと最近はあまり開いていない。
必ず毎日読む、という意味の愛読書は、題名を書いても仕方がないが、自然科学系の専門書だ。生業だから仕様がないが。



       時々ふと思う事がある。俺は、本当は繊細で感受性に富んだ、文系なんじゃないかと。



 さあもう寝よう。奴のように夢の中で、綺麗な・・・・・


                        あるイメージの追憶とは、
                               ある瞬間を惜しむ心にすぎない
                              (失われた時を求めてー鈴木道彦訳より)


  
追伸

書き終えて、upして、さて確認をしようと画面を開いたら、集英社ヘリテージ文庫『ユリシーズ』のadが既につ いていた。
すごいなぁー、ネットの世界は。
この文庫本も書架に有ります。もちろん大好きですよ。丸谷翁の偉大な仕事ですね。