000-1-散歩と文庫

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

久しぶりに、長い時間散歩した。国道から逸れて、売り出し中の高級住宅分譲地を通り抜けると、川に沿った造成地に広大なショッピングセンターが開店していた。

かれこれ5キロ程歩き続けている。家を出て小一時間だろうか、腕時計は置いてきた。
一階でスポーツドリンクを買って、これまただだっ広いアトリウムの噴水の脇でのどの渇きを癒した。教会の尖塔を模したようなモニュメントの大時計は10時半を指している。まだ開店して間もないのだろうか、広場には私の他に5、6人しかいなかった。私を含めそれぞれが申し合わせたように連れもなく、石庭の飛び石のように絶妙の間隔で配置されている。
これがウィークデーの正しい有り方なのだろう、などと半ば自嘲気味に薄ら笑いを浮かべていた。
5メートル程離れたベンチに座っていた初老の男が、スローモーションのようにゆっくりと立ち上がり少し歩いてまたベンチに戻った。アトリウムに彼の声が響いている。さっきから聞こえていたのは、独り言ちている彼の声だったのだ。のどかな日常の一場面なのだが、傍から見ると、時間を持て余し、行き場のない人々の有り様に映るかもしれない。

女がショッピング・カートを曳きながら左手の食料品売り場の通路を此方へと歩いてくる。
ゴロゴロと湿った音を響かせているその荷物入れは、白ネギが一本突き出していて、妙にエロチックだ。女は迷うことなく一直線に私の隣のベンチに座ると、時を置かず、手にしていた紙袋から菓子パンを取り出してかぶりついた。見事なまでの無駄の無さだと、飲み物は持っているのだろうかと、馬鹿な事を考えた。

ころ合いを見て、エスカレーターで二階へ上がる。
若者向けの洋服屋と子供向けのアクセサリー屋で華やかなこの階の端に、かなり広い面積を占めている本屋があった。レコード、いやCDも売っているらしく、ショウウインドウにはアイドルグループの新譜案内とその予約受付の張り紙とが、ところ狭しと並んでいた。

昼まで散歩をするつもりだし、帰りの道すがらどこか川の傍で一休みしながら、本でも読もうかと考えた。良い考えだと思って、文庫の棚へ向かった。

一体、どうなって仕舞ったのか。何という新刊の量。崩れんばかりに「文庫本」の新刊が積まれている。最近の日本には、こうも沢山後世に残すべき作品が多いのか。
勘弁してくれ。

ご多分にもれず、出版業界も生業が難しくなっている。でもこれは無いだろう、と思う。いや、腹が立つ。
僕の知る限り、文庫になるとは、その作品の最高の評価であったはずだ。

単行本でとりあえず時代の流行りもの、例えば 「文化人気取りの歌うたいの小説」、例えば 「ベストセラーという、普段本を読まない人が買う本」、例えば、「大きな活字で行間をネットのブログのようにとった、まるで詩集?かと間違えてしまうようなアイドルのエッセイ本」・・・を出版して、可哀そうにもその子たちが「今風の古本屋」で捌かれているというのに、そんな物までが(作者には失礼だが。敢えて)文庫本として、在る。

一体これはどうした事か。もはや出版業界に「志」は無いのか。などと一人怒りながら、支払いをした。
「ポイントカードをお持ちですか?」「今おつくりになりますか?」に余分な返答を二度して金を払い本屋を出ると、買い物客が溢れていた。かれこれ一時間過ごしていたと、尖塔の時計が睨んでいるように見えた。
どうも此処は、私のいる場所ではないみたいだった。

「城崎にて」を買った。表題は、「小僧の神様・城崎にて」だけれど、昔から僕はこの本を「城崎にて」と呼んでいる。実を言うと既にこの文庫は家に有る。それもたぶん二冊か三冊か。
旅先で、それが仕事でも遊びでも、移動時間には大概本を読んでいる。まあその時々で週刊誌の事もあるけれど、無性に読みたくなる本がある。その中の一冊が「城崎にて」だ。だから、本棚に、彼らは並んでいる。愛読書を、持っている本の数で表すのなら、間違いなくその一角に位置する文庫である。
但し、一番では無いような気がする。一番多いのは、たぶん「絵の無い絵本」だと思う。
本当に、僕はこの本が大好きなんだから。
閑話休題

センターの外に出ると、日差しが強くなっていた。今日は体調も良いし、ポケットには「城崎にて」があるし、怖いものは無いぞと想いつつ、それでも「ぼちぼちと歩くべし」を言い聞かせて横を見ると、白ネギのカートが今度は赤レンガの上を飛び跳ねていた。


余計なことかもしれないけれど、僕は(新潮文庫)が一番好きです。
作品の選別はもちろんですが、まず紙の質が一番シックリきますね。表紙の手触りと、その柔らかさ具合も最高です。そして何よりも僕にとっての一番は、栞紐。他文庫でしか出現していない作品で残しておきたいものには、新潮の栞紐を切り取ってセロハンテープで背表紙に張り付けて使っています。(新潮文庫さんすみません)
とにかく、良い本を、良い編集者の手で、志を持って世に出す業界にもう一度戻って欲しいですね。